Introductory Readings in the Philosophy of Science (2)
(1)の続き.
カール・ポパー「科学:推論と反証」 概要メモ
Section I
- 私は,科学と疑似科学を区別するにはどうすればよいかという問題(線引き問題)に悩んでいた.
- 「科学と疑似科学の違いは,実証的方法が採用されているかいないかだ」という答えには満足できなかった.
- むしろ,「真に実証的な方法」と「そうでない方法」のどちらを用いているかによって,線引きができるのではないかと考えた.
- 実証的な方法(観察や実験)に訴えているにもかかわらず,科学的水準に達しているとは思われないものもある(例:占星術).
- このような違いに注目するようになったのは,1919年の日食の際,アインシュタインの予想(重力の光に及ぼす影響で,ある星が通常とは異なった位置で観測されるというもの)が的中するのを見てからである.
- 一方で,当時は強い興味を持っていた他の3つの理論(マルクスの歴史理論・フロイトの精神分析理論・アドラーのいわゆる「個人心理学」理論)については段々と不満を感じるようになっていった.「どうしてこれらは,物理学の諸理論とこんなにも違っているんだろう?」
この相違をはっきりさせるために説明しておくべきなのは,当時の私たちの中でアインシュタインの理論がまったく正しいと信じていた者はほとんどいなかったということです.ですから私は別に,他の3つの理論の真理が疑わしかったから,この問題(線引き問題)に悩んでいたわけではないのです.また,数学を使う物理学の方が,社会学や心理学の理論よりも「厳密」なのではないか,と感じていたからでもありません.私の悩みは理論が正しいかどうかの問題でも,それが厳密であるか,定量化できるか,といった問題でもなかったのです.これら3つの理論は,科学の装いをしてはいるけれど実は原始的な神話の方にむしろ多くの共通点を持っているのではないかと感じていたからです.言うなれば,天文学より占星術の方に似通っているのではないか,と.
- これらの理論の崇拝者は,これらの理論が何でも説明できるという点に感銘を受けていると見受けられた.
- 実際,理論を「立証」するための事実がどこにでも見つかるのだ.しかしそれは,「ある事実がその理論によって解釈できる」ということを示しているだけでしかない.
私はこのことを,大きく異なる2つの人間行動に対する解釈を示すことによって,説明できると思われます.すなわち,子供を溺れさせようとして池に突き落とした男の行動と,その子供を助けようとして命を落とした男の行動を考てみましょう.これらのケースの両方とも,フロイトやアドラーの理論では簡単に説明がつきます.フロイトによれば,最初の男は抑圧(エディプス・コンプレックス理論の構成要素)に苦しめられており,2番目の男は自分の性衝動を昇華することに成功したということになります.アドラーによれば,最初の男は劣等感に苦しんでいて(そしておそらく,自分が犯罪を犯すことができるのだと,自分に証明する必要があった),そして2番目の男もやっぱり劣等感に苦しんでいた(子供を救うことができるのだと,自分に証明する必要があった)のです.人間の行動のうち,これらの理論で説明できないものがあるとは私には思えません.
- つまり,理論にそぐわない事実を提示することがほとんど不可能.
- アインシュタインの理論は,これらとまったく違う.理論の当然の帰結として予想された現象(i.e.星の姿が通常と異なる場所に現れること)が観測されなければ,理論は反証されるというリスクを負っているからだ.
- これらのことから私が得た結論は次の通り.
- 理論を「実証」している事実を見つけよう思えば,それを行うのは容易い.
- 実証が有意義なのは,それがリスクを伴う予想の結果得られたときだけだ.(アインシュタイン予想の実証は,リスクを伴っていたので有意義だ.)
- 「良い」理論とは,何かが決して起こらないことを明言している理論だ.その数が多ければ多いほど良い理論だ.
- いかなる観測可能な事実によっても決して反証され得ないような理論は,科学ではない.反証が不可能なことは,理論にとって美徳でなく悪徳だ.
- つまり,反証可能性の有無によって科学と疑似科学の間の線引きができる.
Section II
Section III
- この考えを最初に世に出したのは着想から13年後,ヴィトゲンシュタインに対する批判の形としてである.
- 彼の基準を用いると,現在科学と認められているものの大部分は科学でないということになる(どんな科学も,観測された命題から演繹的に導かれることなどないから).その一方で,彼の基準は占星術のようなものを科学から除外することができない.
Section IV
Section V
- 帰納法の問題とは,以下の3つの事柄が衝突していることから生じている.
- (a)「観測や実験によって法則の正しさを証明することはできない」というヒュームの発見.(なぜなら,「法則は経験を超越する」から).
- (b)「科学はいかなる時でも法則を示そうとし,これを用いるものである」という事実.
- (c)「法則や理論といった科学的命題が受け入れられるか拒絶されるかを決めるのは,観察と実験のみである」ということ.
- これら3が衝突しているように見えることが「帰納法の問題」なのである.
- しかし,(a)と(c)は別に衝突しはしない.科学法則の受容は,一時的な仮説に過ぎないからである.テストに耐えている限りにおいて,受け入れられているだけなのである.
- 法則や理論は,経験的事実から推論されはしない.論理的な帰納というものはないのである.経験的事実から推論できるのは,その理論が間違いであるということだけだ.(そしてその推論は純粋に演繹的である*1.)
- これでヒュームの問題は解決した.
Section VI
- 帰納法の問題はこれで解決したが,形を変えて現れるかも知れないので予め答えを用意しておく.
- Q.観測された命題から,どうやって理論へ飛躍するの?
- A.まず言っておきたいのは,「観測された命題から」じゃなくって「問題状況(problem-situation)から」理論へ飛躍するものだってこと.そして理論は,その問題が生まれた状況を解決できるものである必要があるんだ.そういった理論には,当然良いものも,悪いものも含まれる.だから問題は,「観測された命題から,どうやって“良い”理論へ飛躍するの?」と問われるべきだ.その答えは,「すべての理論に飛躍して,そのすべてをテストしろ」だ.これしか方法はない.
- Q.帰納法に関するヒュームの元々の問題は,科学的推論の正しさをいかにして証明するかってことだったよね.あなたの言うような試行錯誤による方法は,それじゃあどうやって正しいことが証明できるのさ?
- A.試行錯誤による方法は,誤った理論を淘汰するための方法.
- Q.反証された理論より,反証されていない理論の方が好ましいのはどうして?
- A.僕らは真実を求めているんじゃないか.反証された理論はもうお終いだけど,反証されていない理論にはまだ希望がる.それに,反証されていない理論なら何だっていいわけじゃない.
*1:例えば仮説Aが観測可能な事実Bを含意する場合,〜Bが観測されれば推論規則Modus Tollensにより〜Aが導かれ,仮説は「演繹的に」否定される