動物は次のごとく分けられる
昔どこかで見たリスト.
o. 識別できない色彩をもつもの
p. 毒の猿
q. 法王の楽器を奏でるもの
r. この分類自体の外部に立つもの
s. 王の最後の手紙を食すもの
t. 走るというよりも,むしろ生えているようなもの
u. 地質学的な隠喩で示されるもの
v. 6mまで伸びるもの
w. 右腕の構造を否定するもの
x. 神官の溜息に酷似しているもの
y. いつも,どこかしらから出血しているもの
z. oからzの項に,幸の博識をささやき続けるもの
カール・G・ヘンペル『自然科学の哲学』(3章―仮説のテスト:その論理と力)
(1-2章)の続きで概要のメモ.といっても実は,本書に書かれていない事柄(id:satio12345の勝手な解釈と思い込みによる水増し)が断りもなく含まれているので注意.
実験的テストと非実験的テスト
仮説のテスト含意は,通常以下のような条件文として表される.
もし条件が実現されれば,事象が起こるであろう.
そして,
- 実験的テストとは,を人為的に実現させてその際が起こるか否かを調べるテストのことである.
- 非実験的テストとはが自然に実現されている状況をさがして,その際が起こるか否かを調べるテストのことである.
自然科学の著しい特性の1つは,仮説の多くが実験的テストにかけられるということである.しかし,より狭い範囲においてなら社会科学でも実験的テストは用いられるし,また自然科学といえどすべての仮説が実験的テストにかけられるというわけではない*1.
他の条件は同じにして(other things being equal)
「気体の体積は温度に正比例する」という仮説に対して実験的テストを行う場合,(他の条件は同じにして)の値だけを変化させたときにがどのような値をとるかを調べなければならない.「他の条件は同じにする」という配慮を怠った場合,「はに正比例しなかった」という実験結果が出たとしても,が以外の変数に影響された可能性があるため仮説の反証にならないのである*2.
しかし,「他の条件は同じにする」ことなど実際には不可能だろう.上記の例でいうならば,磁場の強さや実験室の照明の明るさなど,その仮説に関係がないと思われる因子については最初から配慮されない.その代わりに,「仮説に関係のある因子についてのみ,1つを除いて他を一定に保つ」というのが実際なのである.そしてこのような場合,ある重要な因子が見過ごされているかも知れない,ということは常に可能なのである.
決定的テスト(crucial test)
同一の事柄について抗争しあう2つの仮説とがある場合,どうやって決着をつけることができるだろう? 答え:これら2つが,互いに矛盾する結果を予測するようなテストがあればよい.
すなわち,あるテスト条件について,
- はを予測し,
- はを予測し,しかも
- とは互いに相容れない
のであれば,が実現してその結果がであるかであるかを見るようなテストが1つあればよい.このようなテストのことを決定的テストという.
擬似仮説(pseudo-hypothesis)
万有引力について,以下の「仮説」が主張されたとしよう.
- 引力は愛である.物体が引き合うのは,他の物体に触れて一緒になろうとしているからである.
- 引力は憎しみである.物体が引き合うのは,他の物体に衝突して破戒しようとしているからである.
あきらかに,どのような経験的現象ともこれらの命題は関係がない.経験的意味を有する,いかなるテスト含意も導くことはない.それゆえ,これらについてその真偽を問うことに意味はないのである.このような見せかけだけの「仮説」は,疑似仮説といわれる.
ジョナサン・レセム「スーパーゴートマン」
Super Goat Man : The New Yorker
あらすじ
スーパーゴートマンという男が僕の町にやって来る.スーパーゴートマンはコミックヒーロだったがあまり有名でない.額に角があって,喉と耳に毛が生えているだけの男,スーパーゴートマン.ヒーローから落ちぶれて,他の負け犬ども(ヒッピー&大学中退者)と一緒に「コミューン」で暮らしている.
けれど僕の親父はスーパーゴートマンに興味津々.自分の失われた可能性を,彼の上に投影しているかのようだ.ある日親父と僕はコミックショップに出かけ,全部で5巻しか出ていない『リマーカブル・スーパーゴートマン』という漫画を買って帰る.安っぽくて古臭い,退屈な漫画だった.しばらく僕の部屋に放置されていたが,結局おふくろに捨てられた。
それから数年間,僕がスーパーゴートマンに関わることはまったくなかったが,彼はコミューンの住人とよく何か(原発の廃止やデイケアの設置を呼びかけるポスターを貼ったりするなど)をしていた.他の住人よりも,スーパーゴートマンはかなり年上だったようだ.
13歳の夏に,僕と両親はコミューンのオープン・パーティに参加した.両親は面白いことが好きな人間だから,風変わりなコミューンの中を覗いてやろうという魂胆だったのだろう.2階へ上るとスーパーゴートマンがいて,なぜか僕の名前を知っていた.
「どうしてここに住んでるんですか?」と僕は聞いた.「ここには友達がいるからね.仕事がなくなったとき,世話になったのさ」と彼は言った.「あの戦争について,私は率直に喋りすぎたらしい」スーパーヒーローになる前のスーパーゴートマンは,ラルフ・ガーステンという名前の人間だった.その頃は大学の教師をやっていたらしい.
僕がコーコラン大学の3年生のとき,スーパーゴートマンが教授として大学にやって来た.少し肉が付いたようだったがその他は変わっていない.彼が住んでいる大学寮のサロンで,スーパーゴートマンはとても人気者だった.向こうから話し掛けてくるまで,彼が自分のことを覚えているかどうか,僕は分からなかった.そしてスーパーゴートマンの話から,彼と僕の親父が親密に交際していたということを初めて知って驚いた.それにしてもスーパーゴートマンはいったい何歳なのだろう? 親父よりずっと年上のはずだが.
8ヶ月後たって春学期も終わろうとしていた頃のある夜,中央広場の時計塔の壁をルディとセスがよじ登っていた.2人はフラタニティの会員で,すごく金持ちで,特に評判の悪い学生だ.人の大きさほどもある紙クリップの模型(彫刻科の学生が授業で作った)を担いで,地上6階の高さの壁の出っ張りに立っている.酒が入っていて,大声でスーパーゴートマンを呼んでふざけている.「助けてスーパーゴートマン!」
十数人の生徒が大学寮に赴き,寝ているスーパーゴートマンを叩き起こして連れてきた.彼は服を脱ぎ捨て時計塔によじ登り,馬鹿共を救出に向かおうとする.とその時,巨大紙クリップのせいでバランスを崩したルディがあっという間に塔から落ちる.スーパーゴートマンはルディに脚を延ばしたが,彼の指は紙クリップを掴んだだけだった.
ルディは幸運にも命は拾ったが,それ以降電動車椅子で移動する身となって自信も消え失せた.あいかわらず酒は飲んだが,前よりずっと大人しくなった.
僕は30歳になり.2年間のポスドクを得てオレゴン大学にいた.そこで知り合った24歳のイタリア人の女の子と,2年後に結婚した.テニュアにつながる地位を得たいと思い,就職活動に奔走した.面接の感触はよかったが,結局は手紙で丁寧にお祈りされるだけで決まらなかった.
その後,母校のコーコラン大学で面接を受けられることになった.学長にも会うことができて,今度こそはいい感触だと思った.学長はスーパーゴートマンのことに触れ,今夜の晩餐会に出席すると話す.「彼はまだここにいたのですか!?」と僕は驚く.
スーパーゴートマンはとても老衰してして授業はもう受け持っていないとのこと.「それでも皆には愛されているんです」と学長は言った.「いったい彼は何歳なんです?」「人間の年では分かりませんね.加齢の速度自体も加速しているみたいなので」恐らく,スーパーヒーローであることはステロイドを摂取し続けるようなものであり,肉体に大きなリスクが伴うのだ.学長と別れ,妻が待ってる場所に向かう途中僕はそんなことを考えていた.
スーパーゴートマンは,晩餐会に少し遅れて登場した.歳を取っただけでなく,小さくなったように見えた.150センチそこそこあるかも疑わしかった.四肢は弱っていて,ときどき四つん這いになる.会話も不可能だ.そんな彼を,周囲の人間は礼儀正しく無視している.食事中もスーパーゴートマンのことは誰も相手にしない.とうとう彼は僕に寄ってきて話しかける.そんな僕らを妻は警戒している.
「私は…君の…親父さんを…知っている」「はい」「覚えて…いるかね…?」「もちろん」「私たちは…ジャズ狂い…だった」“私たち”というのはスーパーゴートマンと親父のことなのか,それとも,もしかすると自分のことなのか,と僕は思う.「…ポーカー…」「父にスカンピンにされてしまったんですよね」「そう…いい時代…綺麗な女たち…論争…二日酔い…人生を…謳歌していた…」スーパーゴートマンは親父のことばかり話す.僕は自分が嫉妬していることに気がつく.「でも,父のことより他にもあるじゃないですか,私とあなたの間には」「そう…かな…?」「もちろんですよ,ありますとも」声が段々大きくなって,学長も,他の教授も,そして妻も,怪訝な目で2人を見ている.後で言い訳が間に合うのだろうか.僕は自分が,最悪の,とんでもないことを言い出すと思った.
僕はこう言ったのだ.「昔,あなたが紙クリップを救助するのを見たことあるんですよ!」
カール・G・ヘンペル『自然科学の哲学』(1-2章)
- 作者: カール・G.ヘンペル,黒崎宏
- 出版社/メーカー: 培風館
- 発売日: 1967
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概要
1章 この本の範囲と目的
科学は以下のように分類される.
2章 科学的探究:発明とテスト
ゼンメルワイス「第一産科で分娩した婦人は,産褥熱による死亡率が高い.なぜ?」
彼の立てた仮説とその検証は以下の通り.
- 仮説1 産褥熱が流行しているからだ. ←第一産科と隣接する第二産科では産褥熱による死亡率は高くない.よって仮説は正しくない.
- 仮説2 第二産科では横向きになって分娩している.分娩時の姿勢が高死亡率の原因だ. ←第二産科と同じように横向きで分娩させてみたが,死亡率は変わらなかった.よって仮説は正しくない.
- 仮説3 瀕死の患者に引導を渡す坊主が,第一婦人科の病室の前を通り道にしている.この坊主を見て不安になり,病気に罹りやすくなるのが原因だ. ←病室の前を通らないようにしてもらったが,死亡率は変わらなかった.よって仮説は正しくない.
これらに共通する推論の手続きを一般化すると以下のようになる.
- もし仮定が正しければ,ある観察可能な出来事が特定の状況のもとで起こるはずだ.
- 出来事は起こらなかった.
- よって仮定は正しくない.(1,2から推論規則Modus Tollensにより)
同じことを論理記号を使って書くと以下の通り.
- 1,2 MT
しかし試行錯誤の末,ゼンメルワイスは以下の仮説にたどりつき,ついに第一婦人科の死亡率を下げることに成功する!
- 仮説4 第一婦人科の医師は検屍の直後に診察を行っていた.死体から生じる毒物が婦人の血液に入ったことが原因だ. ←診察に入る前,さらし粉の水溶液で手を入念に洗うよう医師に指示すると,死亡率は急激に減少した.
ところで,ここでは
- もし仮説4が正しければ,手を入念に洗うと死亡率は減少するはずだ.()
- 手を入念に洗うと死亡率は減少した.()
であるが,これらのことから以下の結論は得られるだろうか.
- よって仮説4は正しい.()
答え:できない.これは後件肯定の誤りといわれる誤謬で,有効な演繹ではないからである.
それでは,仮説4は結局正しかったのだろうか,正しくなかったのだろうか? 答え:仮説4が正しかったか正しくなかったかは,この時点ではよく分からない.仮説の誤りを(演繹的に)証明することはできるが,仮説の正しさを同じように(演繹的に)証明することはできない.仮説4はまだ誤りを証明されてはいないが,だからといってそれが正しいという証明にはならない.しかし,この仮説を他のものより確からしいと考えることは合理的なことではないか.他の仮説はすでに反証されてしまった*1が,仮説4は適切に設定されたテストを生き延びた(手を入念に洗っても死亡率が減少しなかった場合,仮説4は退けられていた)のだから*2.
*1:正確にいえば,これだけの情報ではまだ完全に反証されたとは言えないのだが.例えば仮説3に対する反証は「坊主が病室の前を通らなくなれば婦人の不安は完全に消え去る」のような補助仮説(とする.これ以外にもいくつも補助仮説, , ..., があるだろう)を前提としている.つまり仮説3の命題1はではなくと表され,命題3はと表される.これは「, , , , ..., のすべてが同時に真であることはない」ということを言っており,例えばが偽だと判明するようなことがあれば(いつまでも不安が消えない心配性の婦人もいるかも知れない),は必ずしも偽とは限らないのである.
*2:ただし,現在の医学的見地からすると仮説4は間違っている.なぜなら産褥熱は細菌が引き起こすもので,「死体から生じる毒物」によるのではないからである.実際この後,ゼンメルワイス達は化膿している癌を触ったあと入念に手を消毒することなく他の婦人を診察したのだが,12人のうち11人が産褥熱で死んでしまった.
Introductory Readings in the Philosophy of Science (2)
(1)の続き.
カール・ポパー「科学:推論と反証」 概要メモ
Section I
- 私は,科学と疑似科学を区別するにはどうすればよいかという問題(線引き問題)に悩んでいた.
- 「科学と疑似科学の違いは,実証的方法が採用されているかいないかだ」という答えには満足できなかった.
- むしろ,「真に実証的な方法」と「そうでない方法」のどちらを用いているかによって,線引きができるのではないかと考えた.
- 実証的な方法(観察や実験)に訴えているにもかかわらず,科学的水準に達しているとは思われないものもある(例:占星術).
- このような違いに注目するようになったのは,1919年の日食の際,アインシュタインの予想(重力の光に及ぼす影響で,ある星が通常とは異なった位置で観測されるというもの)が的中するのを見てからである.
- 一方で,当時は強い興味を持っていた他の3つの理論(マルクスの歴史理論・フロイトの精神分析理論・アドラーのいわゆる「個人心理学」理論)については段々と不満を感じるようになっていった.「どうしてこれらは,物理学の諸理論とこんなにも違っているんだろう?」
この相違をはっきりさせるために説明しておくべきなのは,当時の私たちの中でアインシュタインの理論がまったく正しいと信じていた者はほとんどいなかったということです.ですから私は別に,他の3つの理論の真理が疑わしかったから,この問題(線引き問題)に悩んでいたわけではないのです.また,数学を使う物理学の方が,社会学や心理学の理論よりも「厳密」なのではないか,と感じていたからでもありません.私の悩みは理論が正しいかどうかの問題でも,それが厳密であるか,定量化できるか,といった問題でもなかったのです.これら3つの理論は,科学の装いをしてはいるけれど実は原始的な神話の方にむしろ多くの共通点を持っているのではないかと感じていたからです.言うなれば,天文学より占星術の方に似通っているのではないか,と.
- これらの理論の崇拝者は,これらの理論が何でも説明できるという点に感銘を受けていると見受けられた.
- 実際,理論を「立証」するための事実がどこにでも見つかるのだ.しかしそれは,「ある事実がその理論によって解釈できる」ということを示しているだけでしかない.
私はこのことを,大きく異なる2つの人間行動に対する解釈を示すことによって,説明できると思われます.すなわち,子供を溺れさせようとして池に突き落とした男の行動と,その子供を助けようとして命を落とした男の行動を考てみましょう.これらのケースの両方とも,フロイトやアドラーの理論では簡単に説明がつきます.フロイトによれば,最初の男は抑圧(エディプス・コンプレックス理論の構成要素)に苦しめられており,2番目の男は自分の性衝動を昇華することに成功したということになります.アドラーによれば,最初の男は劣等感に苦しんでいて(そしておそらく,自分が犯罪を犯すことができるのだと,自分に証明する必要があった),そして2番目の男もやっぱり劣等感に苦しんでいた(子供を救うことができるのだと,自分に証明する必要があった)のです.人間の行動のうち,これらの理論で説明できないものがあるとは私には思えません.
- つまり,理論にそぐわない事実を提示することがほとんど不可能.
- アインシュタインの理論は,これらとまったく違う.理論の当然の帰結として予想された現象(i.e.星の姿が通常と異なる場所に現れること)が観測されなければ,理論は反証されるというリスクを負っているからだ.
- これらのことから私が得た結論は次の通り.
- 理論を「実証」している事実を見つけよう思えば,それを行うのは容易い.
- 実証が有意義なのは,それがリスクを伴う予想の結果得られたときだけだ.(アインシュタイン予想の実証は,リスクを伴っていたので有意義だ.)
- 「良い」理論とは,何かが決して起こらないことを明言している理論だ.その数が多ければ多いほど良い理論だ.
- いかなる観測可能な事実によっても決して反証され得ないような理論は,科学ではない.反証が不可能なことは,理論にとって美徳でなく悪徳だ.
- つまり,反証可能性の有無によって科学と疑似科学の間の線引きができる.
Section II
Section III
- この考えを最初に世に出したのは着想から13年後,ヴィトゲンシュタインに対する批判の形としてである.
- 彼の基準を用いると,現在科学と認められているものの大部分は科学でないということになる(どんな科学も,観測された命題から演繹的に導かれることなどないから).その一方で,彼の基準は占星術のようなものを科学から除外することができない.
Section IV
Section V
- 帰納法の問題とは,以下の3つの事柄が衝突していることから生じている.
- (a)「観測や実験によって法則の正しさを証明することはできない」というヒュームの発見.(なぜなら,「法則は経験を超越する」から).
- (b)「科学はいかなる時でも法則を示そうとし,これを用いるものである」という事実.
- (c)「法則や理論といった科学的命題が受け入れられるか拒絶されるかを決めるのは,観察と実験のみである」ということ.
- これら3が衝突しているように見えることが「帰納法の問題」なのである.
- しかし,(a)と(c)は別に衝突しはしない.科学法則の受容は,一時的な仮説に過ぎないからである.テストに耐えている限りにおいて,受け入れられているだけなのである.
- 法則や理論は,経験的事実から推論されはしない.論理的な帰納というものはないのである.経験的事実から推論できるのは,その理論が間違いであるということだけだ.(そしてその推論は純粋に演繹的である*1.)
- これでヒュームの問題は解決した.
Section VI
- 帰納法の問題はこれで解決したが,形を変えて現れるかも知れないので予め答えを用意しておく.
- Q.観測された命題から,どうやって理論へ飛躍するの?
- A.まず言っておきたいのは,「観測された命題から」じゃなくって「問題状況(problem-situation)から」理論へ飛躍するものだってこと.そして理論は,その問題が生まれた状況を解決できるものである必要があるんだ.そういった理論には,当然良いものも,悪いものも含まれる.だから問題は,「観測された命題から,どうやって“良い”理論へ飛躍するの?」と問われるべきだ.その答えは,「すべての理論に飛躍して,そのすべてをテストしろ」だ.これしか方法はない.
- Q.帰納法に関するヒュームの元々の問題は,科学的推論の正しさをいかにして証明するかってことだったよね.あなたの言うような試行錯誤による方法は,それじゃあどうやって正しいことが証明できるのさ?
- A.試行錯誤による方法は,誤った理論を淘汰するための方法.
- Q.反証された理論より,反証されていない理論の方が好ましいのはどうして?
- A.僕らは真実を求めているんじゃないか.反証された理論はもうお終いだけど,反証されていない理論にはまだ希望がる.それに,反証されていない理論なら何だっていいわけじゃない.
*1:例えば仮説Aが観測可能な事実Bを含意する場合,〜Bが観測されれば推論規則Modus Tollensにより〜Aが導かれ,仮説は「演繹的に」否定される
Introductory Readings in the Philosophy of Science (1)
Introductory Readings in the Philosophy of Science
- 作者: E. D. Klemke,Robert Hollinger,David Wyss Rudge,A. David Kline
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科学哲学の有名な論文を入門者用にまとめたものらしい.最初の論文はカール・ポパーの"Science: Conjectures and Refutations"(「推論と反駁」).イントロダクションにサマリーが載っていたので自分用に訳してみる.
幾多の著作を通じ,カール・ポパー卿の関心はいかにして科学と疑似科学を区別するかという問題に向けられている.彼は,真に科学的な理論とそうでない理論を区別する線引きの基準(criterion of demarcation)を設けることによって,この問題を解決したのだと主張している.反証可能性(falsifiability or refutability)の基準にしたがって彼が示そうとしたことは,アインシュタインの重力理論はこの基準を満足しており(よって科学的であり),占星術や,マルクスの歴史理論や,さまざまな精神分析理論は,理由は違えどどれも科学的でないということである.また彼は,線引き問題を意味の問題から分離したいと考えており,後者は疑似問題であると主張している(意味の問題を疑似問題と考えたのはなぜか,またそのことを示すのにポパーは成功しているかどうか,読者によく考えてもらいたい).
彼は論文の中ほどで,線引き問題は多くの哲学的問題,特に帰納法の問題を解決するための鍵を提示していると主張している.このことは第1部の主要トピックに関連しないので,論文の該当部分は本書に収録の際大部分削除されている.帰納法の問題とは次のようなものだ:我々はどのようにして,過去にも現在にも経験したことのない事実に関する知識の主張(knowledge-claims)を,正当だと証明することができるのだろう? 18世紀にデイヴィッド・ヒュームは,合理的な正当化を行うことは我々にはできないのだと主張した.ポパーは,帰納法に対するヒュームの論理的反駁については同意したけれど,帰納法を心理的に(慣習ないし習慣という観点から)説明しているのには反対した.結論部分(本書にも収録されている)でポパーは線引き問題に戻り,帰納法の問題と関連させて論じている.
本文はこれから読む.