return の置きどころ

#!/usr/bin/perl
sub printMsg {
	print "Message\n";
	return;
}
&printMsg;

Message

となる一方、

#!/usr/bin/perl
sub printMsg {
	return;
	print "Message\n";
}
&printMsg;

となる。returnはサブルーチンから戻り値を返すだけでなく、その場でサブルーチンから抜け出して、サブルーチンにそれ以降の仕事をさせないらしい。

参考:http://www.perlplus.jp/perl/sub/index7.html

ジョン・ホスパ−ス「説明とは何か」(John Hospers, "What Is Explanation")

(Introductory Readings In the Phylosophy of Scienceより)


「科学はたんに現象を説明するだけで,なぜそうなのかについては答えられない」というふうに言われることがある.

また,「科学は法則を導くだけで,なぜその法則が存在するのかについては答えられない」と言われることもある.

こういった主張は,いったい何を言いたいのだろう?

“惑星の公転が楕円軌道を描く”という現象がなぜ起こるかというと,ケプラーの法則があるからだ.

ケプラーの法則が存在するのは,万有引力の法則が存在しているからだ.

万有引力の法則が存在しているのは,多分もっと一般的な法則があるからだと想像できる.

なんだ,ちゃんと科学は答えられているではないか.何が問題なのだ?

多分,こういった主張をする人たちは,こまごまとした個々の法則についてではなくて,「もっとも根源的な事実が,なぜそうなのかについては科学は説明できない」ということを言いたいのだろう.

ホスパ−スは,こういった主張はナンセンスだと言っている.なぜなら矛盾しているから.

何かを説明するということは,その何かを,もっと根源的な別の何かで説明するということだ.ちょうど,ケプラーの法則万有引力の法則で説明するように.

「もっとも根源的な事実」が,なぜそうなのか説明するということは,「もっとも根源的何か」を「もっと根源的な別の何か」で説明するということだ.

これは明らかに矛盾である.

露伴資料に関しまして

軽薄先生

前略 東京の凡骨です.桜は週末にあらかた散り終えました.身辺人事,変化はありません.

資料調査の進捗状況です.国会図書館から以下の文献コピーを入手しました.のちほど全文をスキャンしてメールでお送りしますが,プロジェクトに使えそうな記述を一緒にメモしておきましょう.

  • 渡辺賢治「露伴の北海道時代」国文学試論,2006.03
    • 馬之助一家略系図
    • 千代との関係
  • 渡辺賢治「幸田露伴研究―再考・北海道時代―」国文学踏査,2008.03
    • 余市電信分局と下宿先の所在地
    • 新井田重吉という荒物雑貨商に下宿
    • 下宿には2人の娘,露伴がいた頃1人は10歳くらい
    • 「寺の納所と電信技士は早く住持(十時)となればよい」
    • 代用教員をしていた可能性を指摘している文献も(武井静夫『後志の文学』)
    • 電信分局の職員は分局長一人,通信技手一人(露伴),駆使二人,他に手伝い(常吉)がいたとか
    • 露伴月俸15円,手当てが付いて合計30円(なかなかの高給)
    • 露伴余市滞在中,東開和尚の寺に寄留していた僧(32)が情死事件を起こした
  • 渡辺賢治「露伴の電信修技学校時代」国文学試論
    • 義務年限は卒業後3年ではなく4年であったかも知れない
  • 岡保生「二瓶愛蔵著『若き日の露伴』」日本近代文学
    • 二瓶愛蔵『若き日の露伴』のレビュー
  • 高橋雄造「明治の人々を育てた電信修技学校と工部大学校」電気学会誌
    • 各年の入学・卒業者数等のデータあり
    • 参考文献の記載なし

登場人物としては,

  • 成行
  • 千代
  • 東開和尚
  • 分局長
  • おきく(荒物屋の娘)
  • 常吉

参考文献としてはこの他に,

やはり北海道時代の資料や先行研究は少ないという印象です.創作として膨らませる余地は十分あるかと.

それでは,お体にはくれぐれもお気をつけ下さい.

todo list
  • 上に挙げた資料のうち入手できるものは揃える
  • 全集を読破とはいかなくとも一応全巻手にとって眺めてみる
  • 年表作成
  • 身長体重など
  • プロット作成
  • タイトルを決める

曜日と日付

スーパーで買い物をするときに、賞味期限を見て迷うことがある。それは、たとえば平日はあまり家で食事をしないとすると、今日買った品物が次の週末まで持つかどうかというのはとても重要なことなのである。生活が曜日中心で動いている以上、これと似たような考え方をして買い物をすることは多いのではないだろうか。賞味期限に、なぜ曜日を書かぬ - 最近腹の立つこと

↑情報の表現形式を多重にすることで利便性upという考え.いかなるときでも曜日と日付が合致していることを前提.(1)

私の予想では、主婦さんは曜日かと、独身、サラリーマン、OLさんは日付派かと思うのですが。曜日派?日付派??

↑表現形式の片方が間違いだったことで,伝えたい情報そのものがジャンクになってしまう.(2)

年の干支と同様に日の干支でもこれを添えることによって日のアイデンティフィケーションがほとんど無限大の確実さを加える。これに七曜日を添えればなおさらである。干支の効用(寺田寅彦「自由画稿」)

↑複数の表現形式の間に矛盾があれば手続き中断⇒チェック⇒修正できるから信頼性up.フェイル・セーフ的な考え.(3)

仕事なんかで日程を記載するとき日付と曜日を両方書かされる理由は一見(1)のように思われるが,実は(3)を意図してやっている場合も多い.でも相互のチェック機能が働かない間柄(上下関係がわりとはっきりしている場合など)だと,(2)のような結果に終わることもあるので怖い.

志賀浩ニ『無限への飛翔 集合論の誕生』

無限への飛翔 集合論の誕生 (大人のための数学 3)

無限への飛翔 集合論の誕生 (大人のための数学 3)

集合論には,四則演算や極限概念や,また微分積分や幾何に関係するものは何もない.科学技術や社会で使われるような数学でもない.しかし集合論には,私たちの夢を育てる大きな世界が広がっている.p.3

集合論自体はあまりにも独創的な数学であって,ギリシア数学の影も負っていないし,また微分積分や,代数学の流れの外にある.そのため何の予備知識がなくとも学ぶことができる...p.16

なので集合論記号論理学といった分野は自分にとって手をつけ易い.

アラン・ブーヴィエ『集合論』

集合論 (1971年) (文庫クセジュ)

集合論 (1971年) (文庫クセジュ)

周知のように,集合論はカントルの創始にかかるものである.しかしながら,彼の集合論は“無限の算術”としての理論であって,濃度や順序対の理論が中心であった.これに対し,現在の集合論は,これに抽象代数学的な扱いが加味されて,“集合の代数学”とでもいうべき側面が強調されるようになっている.また,カントル流の素朴な理論から,公理主義的なものになってきている.本書はその面からの解説書であって,現代的な集合論の入り口を概観するには手頃のものであろうと思われる.

「訳者まえがき」より

しかしながら,非常に広い範囲の人々に,数学の一分野の理論を説明するということはむずかしい仕事である.なぜならば,数学は――よくいわれるように――本当の《学問》だからである.ここで《学問》だというのは,数学は,実際に勉強しようとする人々に,強い意志,注意力および厳密さを要求するからである.

原著者による「まえがき」より

以上を心に留めてこれから本文を読む.

カール・G・ヘンペル『自然科学の哲学』(4章「確証と受容可能性の基準」)

(1-2章)(3章)の続き.

テストによって色々な種類の証拠が集まると,仮説の信頼性(credibility)が著しく増すことがある

例えばスネルの法則(光の屈折の法則.異なる媒質の境界に光が入射するとき,入射角の正弦と屈折角の正弦との比 sinα/sinβは,どの一組の媒質についても,その一組に固有なある一定値をとるというもの)に対して以下3種のテストが行われ,その結果のどれもが法則と合致していたとしよう.

  1. 媒体と入射角を一定に保って比を100回測定してみる.(例えば,光線はいつも空気から水へ30°の入射角で入れられる.)
  2. 媒体は一定に保って入射角だけ変えて測定してみる.
  3. 媒体も入射角も色々変えて測定してみる.

この中でスネルの法則を最も強く支持しているのは3番目のテストである.なぜなら,最も多様な種類の証拠(法則を肯定する実験結果)を提供しているからだ.1番目のテストは単にある一組の媒体における sinα/sinβの値*1を示し,2番目のテストはある一組の媒体においてのみ sinα/sinβの比が一定であることを示しているだけなのである.

もちろん,「色々な種類の証拠」といっても無意味なものもあるだろう.例えば異なった標高,異なった月齢の日,異なった磁場の場所などといった因子を加えて3番目のテストを繰り返しても,法則と合致する結果が得られるであろうが,このことによって証拠の種類が(意味のあるやり方で)増えたとは見なされないであろう.

けれど,ある仮説にどんな因子が影響を与えるのかあまり分かっていない状況なら,手当たり次第に証拠の種類を増やすことも無駄ではないかもしれない.例えば,パスカルの依頼によってペリエが水銀柱の実験を山頂で行ったとき,彼は標高以外のどんな因子が水銀柱の長さに影響するかということについて明確な考えを持っていたわけではない.だから彼は以下のように,測定の場所を色々変えることによってテストの信頼性を増そうとしている.

“私は,それゆえ同じことを5回以上も非常に正確に,山頂の異なった場所において試みた,すなわち一度はそこにある小さな礼拝堂の中で,一度は外で,一度はかこいの中で,一度は風の中で,一度はよい天気のときに,一度はときおりやってくる雨と霧の最中に[...]試みた.そしてその実験のどの場合にも,水銀柱の高さは同一であることを見出した.[...]”

ある仮説が作られたときにはまだ知られていなかった現象も,将来その仮説で説明できればその仮説の信頼性は著しく増す

いかなる一組の有限個の点が与えられていても,それらを通ってあるなめらかな曲線を描くことは可能である.同じように,いかなる一組の量的データが与えられていても,そのデータに合致する仮説を構成することは可能である.それゆえ,過去の事実を説明できるというだけでは,その仮説が信用に値すると主張することはできない.ある仮説が過去の事実をすべて説明するよう構成されており,かつその仮説をテストするための事実が将来何も与えられないのであれば,その仮説は反証不可能である.このような仮説(理論)は,ポパー反証可能性の基準によれば疑似科学だということになる.大切なことは,その仮説が新しい事実にもちゃんと適合するかということである.

仮説の単純さ

ある物理現象の量的な特性vが,他の量的な特性uの関数である(v = f(u))らしいことが分かっている.そしてuの値が0, 1, 2, 3のとき,vの値が2, 3, 4, 5であることが実験によって確かめられ,このデータに基づいて次の3つの仮説が提案されたとする.

  • $H_1: v = u^4 - 6u^3 + 11u^2 - 5u + 2$
  • $H_2: v = u^5 - 4u^4 + u^3 + 16u^2 - 11u + 2$
  • $H_3: v = u + 2$

これらの仮説はどれも,先に得られたデータに適合している.これらの仮説をグラフに描くと,どれもが(0,2)(1,3)(2,4)(3,5)の4つの点を通るのである.

問題の物理現象に関してこのデータの他に何も知識を有していないのならば,仮説として$H_1$$H_2$を選ぶ理由はなく,最も単純な$H_3$が選ばれるであろう.

単純さの原理(principle of simplicity)

仮説は単純な方がよいとされている理由には,以下のものがある.

「自然の基本法則は単純である」から

確かにこの考えは,多くの著名な科学者によって支持されているようだ.しかし,自然の基本法則が本当に単純かどうかなど分からない.この考え自体が仮説にすぎないともいえる.

実用的だから

科学は世界を経済的に記述するための便宜的な手段なのだから,複雑であるより単純であるほうが便利.

反証可能性が高まるから

単純な仮説の方が,より多くのテスト含意を有する.例えば「2本足で歩く生き物はすべて人間である」という仮説のテスト含意には,「ソクラテスは人間である」も「鶏は人間である」も含まれる.一方,これより複雑な「2本足で歩き,羽を持たない生き物はすべて人間である」という仮説のテスト含意に「鶏は人間である」は含まれない.

一般に,テスト含意の集合が大きい仮説ほど「大胆な」仮説であり、反証されやすい(反証可能性の高い)仮説である.このことから,ある問題について単純な仮説(反証されやすい仮説)と複雑な仮説(反証されにくい仮説)の両方が生き延びているならば,前者の方が優れた仮説であるといえる.

「仮説の単純さ」について論じられている文献

S. Barker, Induction and Hypothesis. Ithaca: Cornell University Press, 1957.

"A Panel Discussion of Simplicity of Scientific Theories," Philosophy of Science, Vol. 28 (1961), 109-171.

W. V. O. Quine, "On Simple Theories of a Complex World," Synthese, Vol. 15 (1963), 103-106.

*1:この場合 sinα/sinβは1つの数値しかとらない.他に比較する対象がないので,比というより値といったほうが自然であろう.